変革を求めるとき
美容ジャーナリストの齋藤薫さんの書く文章が好きです。
年始に遅すぎる大掃除をしてる合間、
休憩時間にコーヒーを飲みながらi-voceで
彼女のコラムを読んで居ました。
変わりたいと常々思うもの。
うまくいかない時には何かを変えないといけない気がする。
振り返ってみると30年間の人生の中で
初めて大きく変わりたいと思ったのは、
中学時代にクラス中の女子から意地悪をされ続けた3年間。
今考えると他愛もないよくある【仲間はずれ】。
丁度いいターゲットを作って、その人だけが違うのが悪い、あとのみんなは同じだから大丈夫、というただの思春期によくある同調で安心を得る行動。
でも、受ける側の気持ちはそうもいかなくて、
ただ落ち込むだけで済むなら可愛いものの、
生来の負けん気もあったから余計に苦しかった。
なぜ他人に見下されてこんな仕打ちを受けなくてはいけないのか。
と靴に入った画鋲を廊下の掲示板に戻しながら悔しい思いをしました。
思えばその見下されている、という感覚が
わたしは自分にこんな仕打ちをする人たちより優れているはず、というそれこそ思春期によくある過大な自己評価に過ぎないのだけれど、
渦中にいて心に余裕もない状態で、そんなことに気づける大人な発想もあるわけがなく。
苦しい思いをしないためにはどうしたからいいか、大人ぶったアタマで必死に考えた結果行き着いたのが
『周りを圧倒するほどの優れた人になればいい』
ということ。
そんな風に考えても実行しきれるほどの
根性も気力も持たないわたしは
とても中途半端な状態で30歳を迎えました。
今変わりたいと思うのは
暮らし方と女性としての雰囲気。
中学時代の負けん気はそのままに、
我の強い大人になってしまって
生きにくい。
色々なことごとに巻き込まれない職場の先輩たちを観察していると、
マイペースに悠々と自身がやらなければいけない仕事を素早く片付けて周りのフォローもしていて、なんとも佇まいが潔くさっぱりしていて。
何が違うのかな。
とまた頭をひねっては
ふと気づきました。
あぁ、あの人たちは『許せる人たち』なんだと。
周りのあれこれに敏感に反応しないといけないほど追い詰められていないから、何があっても飄々と余裕を持って対応できる。
何があってもひとを責めずにいられるから、
心もトゲトゲしないで穏やかにいられる。
そんな余裕を持ちたいもの。
コラムの中にあった、
【変わりたいと思う時は、エネルギーがないとき】
変えるということはエネルギーを要するもの。
でも変化を求めているときは、
意外と追い詰められていて大きく変えられるエネルギー不足なことが多い。
なるほど。
それでも変革が必要であるなら、
小さな変化を積み重ねるのがいちばんの近道。
それを読んでまた、
大掃除に取り掛かります。
汚れが落ちる、
というのも一つの小さな変化だと
自分に言い聞かせながら。
http://p.i-voce.jp/lifestyle/saito/1109.html